「私的な」ごみのよもやま
室内コンポスト4 自宅のコンポスト、ここ1.2週間で状態が激変した。団子状の塊となり、かなりきついアンモニア臭がする。新たに生ごみを投入してみるが、分解は進むも状況に変化なし。明らかに嫌気性細菌が増殖している。塊をつぶしてみると、嫌気性発酵特有の悪臭である。攪拌の回数を増やしても改善が見られない。インターネットで情報収集するも、これといったページが見つからず、ようやく下記のHPを発見した。コンポストにも寿命があるらしい。 http://mb.ダンボールコンポスト.iishima.com/index.html 以前、堆肥化のことを調べている時に、一次発酵と二次発酵という二段階の過程があるということを目にした。一次発酵は好気性発酵中心でかなり高温に達するが、二次発酵では嫌気性発酵が主となり、発酵熱はあまり上がらないという内容だったと記憶している。今起こっているのも同じ状況なのかもしれない。 団子状のままでは、アンモニアなど植物の生育を疎外する物質が混ざっているために畑地に撒くのは適切ではない。上記HPにしたがい、畑地に撒ける状態にするべく、水分を加えながら見取るしかない。分割しておいたのはある意味怪我の功名だった。 2009.7.20 |
室内コンポスト3 かなりの量になったコンポストを二つに分割、一つは自宅で使用し、職場に一つ置くことにした。コーヒーかすや茶殻、果物の皮など、結構生ごみは発生する。双方順調である。特に、自宅の方は人肌程度の発酵熱が定期的に発生しており、なかなかの良き状態である。かなり目立っていた玉葱の皮も、次第に目立たなくなってきている。攪拌を怠るとビニールから水分が浸潤してしまうので、若干水分量が多いのかもしれない。 簡単なので、ぜひ多くの人に広めていきたいものだ。もっとも、こんなことは、植物系中心の食事で、独り身だからこそできることかもしれないが。 ところで、職場のゴミ箱を覗く機会が多いのだが、他人の分別には絶望的になる。人はあまりに簡単にごみを捨てすぎるような気がする。 2009.7.10 |
室内コンポスト2 自然発生的に出来上がったコンポスト、冬場の管理が不十分で分解速度が極度に遅くなってしまった。ひとえに水分調整の失敗である。コーヒーかすなど、乾燥したごみを入れすぎて水分不足になったことと、室内の乾燥が思いの外はなはだしかったようで、表面のみならず全体がかさかさの状態となってしまった。冬場の計量ではあまり増加がみられなかったので、少しは分解が進んでいるのかと思っていたが、単に水分がなくなった結果だったようである。また、新たに水分の多い生ごみを投入すれば時期戻ると読んでいたのであるが、それらも乾燥が進んでいく状態で、5月になり少しずつ水を加えていくことにした。 カチンカチンといってよいほどに乾燥した野菜屑などが次第に柔らかくなっている。うまく発酵するところまではなかなか行かないが、地道に水を加え続ければ元の状態に戻れるのではないかと… 2009.5.21 |
一升瓶 川端町にあるウェスタンは、近所で唯一一升瓶を引き取ってくれている店であったが、今日持って行ってみると、止めたとのこと。これでついに、近隣に一升瓶を引き取る店がなくなってしまった。売っている者として、小売店の責任は当然のことながらあると思う。しかし、やはり問題なのは、メーカーと国の姿勢なのだといわざるを得ないだろう。結局、自治体回収だけが残り、税による処理となるわけだ。一升瓶はビール瓶と違い、デポジットシステムではなく、瓶そのものに商品としての価値があるために流通している。しかし、一升瓶の市場は年々縮小傾向にあるため、引き取り価格も現在は3円程度、これでは人件費や車両費あるいは燃料代などの輸送コストに到底見合うものではない。製造者あるいは販売者の廃棄物処理に対する責任を国が軽く設定している結果がこういう自体を招いているのである。 その一方で、われわれ一般市民の責任もゼロではないように思える。一升瓶が姿を消した代わりに、ペットボトルや紙パックの焼酎や清酒が増えている。売れるからというメーカーの言い分は、おそらく現実の部分と言い訳の部分を含んでいる。実際に消費者は、運搬や処理の楽な方を選択している。 洗浄や輸送のことを考えれば、必ずしもリターナブルビンの方が環境に優しいとはいえない。しかし、現在の方向性はあまりに安易ではないだろうか、と感じている私は少数派なのだろうか? 2009.4.29 |
PETボトルキャップ回収 正直多忙である。いろいろ考えることがあっても、次々に舞い込んでくる処理すべき事柄に深い思索ができないし、忘却してしまうこともしばしば。前回記述したカレースープは、最近では定番になっている。肉を入れてみるということもしてみたが、手っ取り早いのはコンソメであった。まあ、ちょっと手抜きな感じもしなくもないが、鍋洗いに使用する水の削減を考えれば、使える方法である。個人的には玉葱が不可欠である。 大学生協の取り組みとして、PETボトルキャップの回収を検討している。最近、手ごろなリサイクル運動として拡がりつつあるようで、気づいたところではイオングループの一部や法政大学生協などでも行っているのを見た。他方、インターネット上でいろいろと検索すると、このいわゆる「エコキャップ推進運動」に対しては批判的な意見も少なくない。その主要な論点は、再生あるいは輸送にかかるエネルギーおよび金銭的コストに見合ったものではないということになるだろう。その指摘はもっともであり、正直、私自身もその点でキャップ回収をすることが本当によいことなのか迷うところでもある。一部の意見の中には、PETボトルの利用そのものの問題性を問う意見もあり、私もそれに同調するものである。キャップ回収がある種の免罪符になることはあまりよいことではない。 コストベネフィットの評価やライフサイクルアセスメントなどはとても重要なことである。しかし、それが一般にあまり普及していない理由のひとつは、前提の置き方次第で数値は「どうにでもなる」ために、どれが正しいのかを決定することが困難であるということだろう。だからといって、それを理由にPETボトルキャップ回収を進めていくという気にもなるわけではない。私は、PETボトルキャップ回収の意義は、直接的な資源のリサイクルだけでなく、キャップを外すという習慣作りにも注目すべきだと思っている。現在、PETボトルの回収率はかなりの効率で推移しているようだが、残念ながらすべての回収物がリサイクルされているわけではない。多くはただのごみとして処理せざるを得ないのである。それは、不適正な排出によるところが大きい。中身が残っている状態での排出や異物の混入などが主要な原因と思われるが、キャップとシュリンクラベルの取り外しが徹底されていないことも問題らしい。こうした状況を改善するため、キャップ回収はきっかけとして利用できるのではないだろうか。 言い訳じみており苦しいところだが、今後、大学内での取り組みは拡げていくつもりである。ただし、付け加えておくが、個人的には、PETボトルの利用を抑制することの方が大切だと考えている。 2009.4.22 |
いろいろ 意図せざる結果としてできてしまったコンポストもどき、引き続き利用している。最近計量していないのだが、大体2kg前後の重量で安定している。水分の乾燥が最も大きな要因と思われるが、寒い中で微生物たちが食物残渣を分解しているのも確かである。気温の低下とともに発熱はなくなってしまい、冷たいままであるが、その環境の中でも微生物は生きているということなのだろう。分解の早い葉野菜の屑やピーマンのへた・種といったものは、現状でも一週間あれば跡形もなく消え去る。分解しにくい玉葱の皮・キャベツの芯・にんじんのへたなどについては、細かくして投入することで、分解速度は多少なりとも速まるようである。 先日テレビを見ていたら、エコクッキングについて触れている番組があった。たいていは効果に疑問があってあまり実行しようという気にならないか、あるいは家族向きの対策で、一人身の人間には実行しようにもできないものが多くて、正直参考にならない。その中で、食べ終わったカレーの鍋を使ってスープを作るというのがあり、いつか試してみようと思っていたので、昨日そのチャンスが到来し、実行してみた。結果は、残念ながら失敗。きれいに鍋からカレーを掬い取りすぎたようで、味が極度に薄くなり、まずくはないが美味しくない。カレースープとして仕上げるには、投入する水分量にもよるが、最低お椀一杯くらいのものを作るとして、軽く底にカレーが満遍なく残るくらいの量が必要なのかもしれない。野菜も入れてしまった手前、このまま捨てるわけにも行かず、かといってこのままでは食欲が湧かず、無駄にするくらいならということで、冷蔵庫に保管してあったキムチの残り汁と中華だし・七味唐辛子など加えて、アジアの4カ国の合作とアホなことを考えつつ、さらに野菜を加えて弱火で煮てみた。配合のバランスの影響か、あるいは自己主張の強さか、キムチ味の強いスープになった。しかし、やっぱり物足りない。見た目は昔韓国人留学生に食べさせてもらった韓国スープに近いのだが、決定的に味が劣っている。すでにもうすべて消費してしまったが、あの中に牛肉を入れるべきだったかも、と今思う。肉というのはうまみたっぷりの貴重な調味料でもあるということをあらためて思った。それと同時に、日本人はまだ肉をうまく使えてないのかなという感も(少なくとも自分はそうである)。 ところで、先日北海道新聞の取材を受けた。旭川ではレジ袋の有料化が進みつつあるが、それについてのインタビューであった。すでに11月8日(土)の道北版に掲載されたとのことだが、実物を見ていない。 2008.11.12 |
室内コンポスト? 先日、帰宅するとなんとなく変なにおいがするなぁ、と思い、その原因に思いをめぐらせたところ、思い当たったのが生ごみである。生ごみは、軽く乾燥させておけば腐敗もしないしカビもほとんど生えることはない。なので、我が家では、生ごみは一日以上放置し、軽く乾燥させた状態で保管している。しかし、その時は水分の飛ばし方が足りなかったようで、レジ袋にためておいたごみから出た水分が底の方にたまるほどになっていた。幸い、異臭は腐敗によるものではなく、水分過多と攪拌不足による嫌気性発酵のにおいだったようである。通常、堆肥を作る際には、好気性の細菌による発酵の場合が多いが、嫌気性の発酵によっても堆肥作りは可能である。例えば、北欧やドイツで盛んなメタン発酵処理は嫌気性の細菌によるものである。嫌気性発酵の場合、分解速度が遅く、発酵によってメタンや悪臭の原因であるメチルメルカプタンなどが発生する。 嫌気性発酵を止めるためには、水分を調整して、多少丁寧に攪拌することによって好気性発酵が優位になる状態を作ってやればよい。ということで、乾燥させたコーヒーかすを大量に混ぜたところ、嫌な臭いはなくなり、コーヒーの香漂う空間に生まれ変わった。さらに、毎日数回攪拌することによって、好気性発酵が進む状態へと変化した。攪拌する時に袋に触れてみるとほのかに暖かい。これも好気性発酵が進んでいる証拠である。狙って作ったわけではないが、即席の室内コンポストとなったわけである。これで、しばらくは生ごみを投入すれば発酵させてくれる状態が続くだろう。あとは水分調整をしっかりとするのみである。ある意味、怪我の功名、であった。 生ごみのほとんどは水分である。うまくいけば、コンポストによって生ごみの量は10分の1程度にまで減少する。さらに、家庭菜園など持っているならば格好の土壌改良剤となる。多くの人たちにとっては、生ごみは「典型的なごみ」であり、焼却処分がふさわしいと考えるものであろう。しかし、使い方によってはきわめて有益な資源である。本格的にコンポストなど作らなくても、庭に穴を掘って捨てていくだけでも、あとは自然が堆肥にしてくれるのである。虫や悪臭は土を振りかける程度でたいていは解決する。それほど面倒なことではないので、ぜひ実践してもらいたいものである。 2008.9.22 |
わりばし イオングループは他に先駆けてレジ袋の有料化に踏み切り、我が家の近くのポスフールも10月から有料となる。各種のアンケートなどを見ると、レジ袋の有料化に関する国民の理解は非常に高く、おおむね賛成あるいはやむをえないという意見である。これまで、小売各社は「消費者ニーズ」と称してレジ袋をばら撒き続けたが、ようやく重い腰を上げはじめたというところだろう。物価上昇の最中で、コスト削減の意味も決して小さくはないものと思われるが、悪いことではない。レジ袋の有料化によるごみの減量効果は、総体としてみればたいしたものではないといわれている。しかし、これは小さくとも偉大な一歩ともいえるだろう。レジ袋をもらうことを当然と考えていた国民意識を変えることが出来たのだという意味で。これをきっかけに、自分たちの周りにある「常識」を、もう一度見直していくことが大切である。 ところで、最近では、割り箸がレジ袋と並んで「無駄の象徴」扱いをされているように感じるのは私だけだろうか?北海道内ではびっくりドンキーなどを展開するアレフがわりばしの廃止に踏み切ったし、外食産業の一部ではプラスチックの箸を導入するところが徐々に増えているようである。昨日、旭川市内の「にこにこ食堂」というところでラーメンを注文したら、箸袋に入ったプラスチック製の箸を出され、少々驚いた。あらためて店内を眺めてみると、入り口の近くに普通の木の割り箸が置かれていた。どうしても割り箸じゃなければだめという人はまだまだ多いのだろう。 数年前、割り箸は環境に悪いかやさしいかということがちょっとした論争になったことがある。これは割り箸に限ったことではなく、要は、繰り返し使う食器・容器を洗浄する際の環境負荷と、ワンウェイの食器・容器の環境負荷とで、どちらがよりよいのか・悪いのかということである。あらためて気になって、今年の前期に学生たちとポスター作りを兼ねて学習を行い、個人的にもインターネットで検索してみたが、どうやら結論には達していないようである。 ただ、明確な結論がひとつ。日本で使われている割り箸の9割以上は外国産であり、割り箸養護派の主張のひとつである、割り箸は間伐材や製材屑から作られるので資源の有効利用であるというのは、かなり怪しいということである。日本は食料の6割を海外に依存しているが、これは、別の観点からみれば、他国の資源を収奪していることと同じである。割り箸も、中国やベトナムの森林資源を収奪することによって、低コストの製品が作られているのである。 マイ箸運動なども一定程度の広がりをみせているし、割り箸は不要と考える人も増えているようだし、私もその一人であるが、考え方は人それぞれである。だから、他人に割り箸を使うなと強要することはできない。ただ、少なくとも、国産の割り箸を使うべきである、ということだけは主張できるだろう。 2008.9.19 |
発泡トレー 近年、発泡トレーを回収する大型小売店が増えている。本来的にはそもそも発泡トレー自体の使用量が減ることの方が望ましいが、日本人の生活にかなりなじんでしまっている現状を急激に変えることはそう容易いことではない、ということを考えれば、トレー回収の拡大は、ベストではないが、ベターではあると評価できよう。さらに、かつては色つきのトレーは回収の対象とはならなかったが、最近はすべて回収というところが多いようである。この点も一歩前進と評価できよう。 プラスチックはそもそも軽量なのが特徴であるが、発泡トレーは特に軽い。特殊な方法で気泡を作っているためであり、顕微鏡レベルで観察すると、中身はスカスカの状態らしい。であるから、輸送の段階では無駄が多く、PETボトル以上に「空気を運ぶようなもの」である。それを考えると、発泡トレーの回収はやはり象徴的な要素の方が強く、リサイクルの効率性という観点からは、決して望ましいものとはいえないだろう。これは、PETボトルにも同じことがいえる。やはり、使用量の削減がよりベターなのである。消費者団体などの努力の甲斐があり、かつてはにんじんなどの野菜にも多用されていたトレーが、ほぼ肉・魚類あるいは弁当・惣菜の類に使用が限定されている。今後は、さらに削減可能な品目を増やしていき、ひいては使用ゼロまで行くことを考えていくべきであろう。 ちなみに、発泡トレーは、いわゆる発泡スチロールと化学的な組成は同じである。納豆の容器も発泡スチロールなので、原理的には同じ方法で処理が可能である。一部の店舗では、納豆の容器を対象外としている。これは汚れ・臭気の問題が大きいだろう。確かに、あのネバネバはなかなか取れそうにない印象である。しかし、水にしばらくつけておくだけで綺麗に取れる。ぜひこれを実践して、より多くの発泡トレーが回収されることを望む。 2008.6.5 |
賞味期限 気にする人はかなり多いだろう。買い物していると、明らかに奥の方から商品を取っていく主婦の方たちが多い。もちろん、賞味期限(あるいは消費期限)は長い方がいいというのが一般的な考え方である、が、ここで考えていただきたいことがある。例えば、3人家族の家庭で、翌朝納豆を食べようと思っていたとして、賞味期限が長いとか短いとか、考える必要があるのかということである。このような点から考えると、賞味期限が長い方がいいという考えに固執する必要はないのではないかともいえる。 なぜこんなことを書いているかというと、日本人の食生活における特殊性(それも悪い意味における)について、みんなが良く考えなければならない、と考えているからである。その特殊性とは、日本人ほど「食べ残し」の多い国民はないということである。インターネットでもこの点に触れたものがいくつもあるが、1992年の京都市調査では、台所ごみの38%が食べ残し(まったく使われずに捨てられた14%も含む)という、あきれた結果となった。 つまり、買い物において最も重要なのは、いかに長持ちする食材を買うか(これももちろん重要だが)ではなく、いかに計画的に食材を購入するか、ということなのである。賞味期限の長さだけを目安にして買い物するというのは、実はきわめて安易な発想であり、家になにがあって、なにを足せばなにができるか、ということを考える知恵や知識が重要であるということなのだ。そのように考えれば、賞味期限の短い食材を購入することだって十分に合理的な行為となるということである。 また、余談であるが、私は、漬物はやや漬かり過ぎくらいの方が好きである。特に、賞味期限ギリギリのキムチの乳酸発酵した味が好きである。なので、わざわざ一番賞味期限の近いものを買うようにしている。 賞味期限については、もっと柔軟な発想をした方が良いと思う。 2008.3.31 |
貧乏レシピ?2 煮物の煮汁、飲んでみるとなかなか美味しい、が、やはり塩辛い。かといって、薄めてみると、イマイチな感じがする。こんなことを試しているのは私だけなのだろうか? こんなこともあって、あまり煮物を作る機会は多くなかったのだが、今の住居に引っ越してから、主に乾物を使った煮物を作る機会が増えた。その煮汁を有効活用できないものかと考えた挙句、まずたどり着いたのがめんつゆであった。うどんつゆやそばつゆにはじまり、最近では、そうめんや冷麦を温麺として食べる時にも使っている。余談になるが、そうめんを暖かいつゆで食す、いわゆるにゅうめんは、インスタントラーメンよりもはるかに茹で時間が短いので、食事の用意が面倒な時に良く作る。乾燥わかめにねぎが乗っていればそれなりに食える。小松菜やほうれん草のおひたしなんかがあるとさらによい。 しかし、なかなか困るのが、ひじきの煮汁である。味に問題はないのだが、やはりひじきの細かく砕けたのが澱になってたまっているのは気になる。少量であれば、おひたしを食べる時の醤油代わりに使ったりもできるが、ちょっと多くなると、そうも行かない。 ところが、先日、ひじきの煮汁でなかなかおもしろい発見をした。しいたけの戻し汁で炊き込みご飯を作った際に、それにひじきの煮汁を混ぜて使ってみたが、なかなか美味しかった。これからは定番メニューとなること必然である。ひじきご飯の文化がある家庭では当たり前に考え付くことかもしれないが、個人的には久々にヒットした創作、もとい実験料理であった。 2008.3.7 |
貧乏レシピ? エコクッキングなる言葉がある。簡単に言ってしまえば、いかに無駄なく食材を使い切るか、ということになるだろう。今回は、個人的に実践していることをいくつかあげてみたい。 まず、野菜であるが、スーパーなどでよくキャベツの一番外側の葉の部分を捨てていく人が多い。この気持ちはわからないでもない。生では食べられないし、茹でてもあまりおいしくない。しかしながら、この部分も十分に食べられるのだから、しっかりと利用してあげるべきであろう。私は、炒め物やインスタントラーメンの具材、スープなどに利用している。あの独特の味が気になるという点は、濃い目の味付けにすることであまり気にならないし、茹でる場合は多少時間を長めにしてやることで、柔らかい内側の部分にはない食感や味を楽しめる。また、ねぎも、青い部分を使わない人も少なくないようであるが、麻婆豆腐や鍋などに使えばよい。ほうれん草や小松菜の根のついた部分を捨てる人もいるようだが、私に言わせれば、ここが一番甘くておいしい。(ほうれん草については、水上勉が『土を喰らう日々』で書いているということが『美味しんぼ』で書かれていたのが気になって読んだことがある。しかし、実家では普通に食べていたので、特別な発見でもなかったが)ブロッコリーの茎の部分も、茹でると食感もよく、甘みも強く、大変おいしい。ただ、葉の部分は硬いし味もあまりよろしくない。また、茎の部分の表面が非常に硬い場合もあり、このときには包丁で薄く剥く必要がある。大根葉は、味噌汁の具材でもよし、塩もみして漬物として食すもよし、また、それを温かいご飯と混ぜ合わせて菜飯にするなんていうのは最高である。たいした工夫ではないが、これらにより、我が家から出る野菜屑はほとんどない状態である。どうにもならないのは、玉葱の皮やジャガイモの皮くらいではないか? それと、意外とおいしいのが、キムチの残り汁を使った料理である。韓国でも、つかりすぎたキムチは、鍋にしたりするそうであるが、例えばこれをラーメンに入れてみると、程よい酸味と辛味が加わり、おいしいことこの上ない。また、冷ご飯を使っておじやなどを作る際に、キムチの残り汁を加えると、クッパのような味になり、これまたおいしいのである。 あくまでも個人的な見解で、万人受けするものではないかもしれないが。 2008.1.28 |
紙パック 先日、日本製紙旭川工場とリサイクルプラザ紙遊館を、学生たちとともに訪ねてきた。なんだかんだで5度目くらいの来訪であるが、特別なものは何もないのに、いつも楽しい。職員さんの説明は、おそらく小学生相手が多いからだろうが、大学生たちにはちょっと厳しいものがあるのかもしれない、などと思いつつ、その一方で、お前らちゃんと聞いておけよ、といいたくなる話ばかりでもある。 その中で、新たに知った事実がある。それは紙パックの再成立がかなり低いという事実である。実際にインターネットで調べてみると、古紙一般が70%を超える回収率、再利用率も60%に達しており、ダンボールにいたっては100%だというのに、紙パックは25%にとどまっている。製造過程に発生するものを含めても35%程度である(詳しくは上のリンクで)。 自分自身は、母が生協の紙パック回収に協力していた影響もあると思うが、中学生の頃あたりから普通に分別していたし、スーパーや自治体でも紙パック回収の拠点を作ったり、廃品回収でも回収品目にされていたり、回収業者も引き取っていたり、紙パックはむしろ一般古紙よりも回収率が高いものだと勝手に思い込んでいた。 しかし、この事実を知り、冷静に状況を振り返ってみると、紙パック回収には、軽く洗浄したあとに切り開くなどの手間がかかるという難点があるということ、PETボトルや空き缶・空き瓶と違い、小売店での分別が行われず、家庭に持ち帰らない限りリサイクルされることがない可能性が高いことなど、リサイクルには不利な条件があるということに気づかされた。紙パックというと牛乳パックをイメージするが、最近では清涼飲料水や酒類などにも利用が拡大しており、それらが牛乳パックと同じ扱いであるということが、一般にあまり知られていない可能性も考えられる。消費者ニーズに合わせて多様な容量の紙パックが増えていることも、回収率を押し下げる要因なのではないだろうか。 紙パックはきわめて良質な資源である。業界では2010年までに回収率を50%に上げるという目標を設定しているようだが、業界だけの努力にとどまらず、市民一人一人の問題でもある。 2007.8.2 |
紙ごみ 日本における古紙リサイクルは、世界的にみてかなり優秀であると聞く。ダンボールはほぼ100%近い再利用率であり、新聞なとについても5割を超えているという。容器包装リサイクル法の導入によって、包装材として使われている紙についても、今後再利用が上昇していくものと思われる。 その一方で、再利用に適さない紙もかなりの量になっているということを、われわれはあまり知らない。豪華な化粧箱などに利用されるラミネート紙やアート紙などは再利用困難物の代表例だし、感熱紙や感圧紙も、われわれの生活に結構入り込んでいる。一部の自治体では、そうした紙も含めて回収しているようだが、いろいろと問題を抱えているようである。こうした紙が含まれていると、再生事業者にとっては処理が困難で、ミックスペーパーという技術も開発されているようだが、基本的には固形燃料などの形でリサイクルされるパターンが多いようである。 感熱紙は、例えばレシートや公共料金の請求書などに利用されているし、感圧紙もさまざまな申請書に使われているため、思いの他われわれはそれを手にする機会が多い。コーヒーを入れた時のフィルターなども一度使われればそれっきりである。これらの多くは燃えるごみとして廃棄されていることだろう。しかし、こうした紙を有効利用しない手はないように思う。 私の家では、感熱紙や感圧紙、そして一度使ったコーヒーフィルターは、食器洗いの前処理(汚れのひどい皿やフライパン・なべなどの汚れの除去)に利用している。紙だけあって油汚れはかなり吸着する。洗剤の量も抑制できるし、水の汚れも抑えることができて、幾つもの利点がある。面倒くさいように思われるかもしれないが、実際やってみるとたいしたことはない。こうした動きが広がっていけばいいと思う今日この頃。 2007.6.29 |
生ごみ 一人身の気楽さ、一冬生ごみを乾燥させて保存することにした。肉類や魚介類をあまり食べないため、出る生ごみは野菜屑や卵の殻といったところ。 キャベツの芯なんかは、乾燥させると体積が見た目で半分以下になる。他の野菜屑や果物屑も同じである。一番目立つのは玉葱の皮、これは体積も縮まらず、細かくちぎらないとあっという間に袋が膨れ上がっていく。 この間、どのくらいになったのか気になって計ってみたが、3か月分で1kg程度であった。いかに水分が多いかを実感したところである。 2007.3.15 |
関西出張 先週末、関西出張だったのだが、ごみに関連して二つばかり。 今回泊まったのはR&Bというホテルだったが、環境対策に取り組んでいることを売りにしている。例えば、歯ブラシ・かみそりなどは原則として提供しないとか、連泊の場合はシーツの交換をしないようにできるとか。人の慣れというのは恐ろしいもので、当たり前と思っているサービスがないと、少し戸惑いを覚える。しかし、それが価格に転嫁され、ひいては環境負荷となるということは、冷静に考えればわかることだ。こんな取り組み、もっと広がってもよい。 もうひとつは『バッド』な話題である。京都・大坂と、関西圏の二大都市を訪れたが、なんと、あの昔懐かしい黒ビニール袋がごみ捨て用に健在であった。どうやら分別もしていないらしい。信じがたい光景、というのはちょっとオーバーかもしれないが、衝撃であった。 関西では、清掃部局の不祥事(奈良市です)も起こっているが、こうした状況は、ひょっとしたら職場の問題が大きいのかもしれないと、ふと思った。 2006.10.31 |
回収方法 最近、旭川市の清掃工場を見学する機会があった。焼却施設に併設されているリサイクルプラザの見学も行ったのだが、そこで思ったことを。 旭川市では、ビン類と缶類はひとまとめにして出す方式を取っている。実は、実家の厚木ではそれぞれ別に出すということになっていたので、違和感を感じつつもそのように排出している(ちなみに、札幌も、PETボトルも含めて混合して出すこととなっていたが、違和感があったためにいつも分けて出していた)。 リサイクルプラザは2度目だったが、やはり混合回収はよくないということを改めて実感した。 回収された資源物は、袋を破る機械に投入された後に、手作業で選別される。その際、アルミ缶などに袋が絡みつき、作業員はやむなく缶ごと除去していた。これは作業員の怠慢というよりも、むしろ混合回収の弊害、そして、袋回収の弊害であるといった方がよい。また、人間は完全ではない(もちろん機械だって完全ではない)。したがって、取りこぼしも少なからず発生するが、それらは残渣として廃棄されてしまう。袋も、旭川の場合には不燃物扱いになるために、未処理のまま最終処分される。 近年、資源物の収集に当たっては、コンテナ回収を行う自治体が増えつつある。これならば、袋はすべて家庭に持ち帰ることになるし、異物が混入する可能性も低下する。問題はコンテナがかなりスペースをとってしまうということだが、それくらいは何とかなるのではないか? 旭川市だけでなく、多くの自治体がコンテナ回収を導入すべき、と個人的には思う。 2006.8.3 |
リターナブル瓶 最近、セブンイレブンの商品の中に、リターナブル瓶のビールが少し置かれるようになった。バドワイザー・ハイネケンの類、そしてアサヒがライセンス生産しているレーベンブロイなど。全体から見れば取るに足らない変化ではあるが、こういうことを進めていけば、いずれ流れは強く大きくなっていくものだ。消費者も、選択的な購買をもっとしていかなければならないだろう。 ところで、ラベルに「リターナブル瓶」の表示があるかないかで店員は判断をしているようだが、レーベンブロイにそれがなかったがために、一悶着する羽目になった。アサヒさん頑張ってください。それくらいのこと、すぐできるでしょ? それにしても、納得いかないのは、最近高級感を出すためか、他との差異を協調するためか知らないが、ワンウェイ瓶のビールが増えている。どうもキリンの製品が多いようだ。キリンも頑張って欲しいものだ。そもそも、日本には小瓶というものも存在しているのだから、そういうものを積極的に利用していただきたい。闇雲に瓶の規格を増やすのではなく、あるものを利用するということを、企業も考えて欲しいものだ。 2006.7.5 |
排出モラル 金銭的な余裕の問題で、最近ビールから発泡酒へとシフトしたのだが、その余波で、アルミ缶の排出量が飛躍的に増大した。資源ごみ回収の日に排出すればよいだけの話ではあるが、引越し先の近くに、帯広資本の某スーパー(わかる人にはわかる)が、アルミ・スチール缶、PETボトル、紙パック、白色発泡トレイの回収を行っているので、そちらを利用させてもらっている。今回はそこの話。 いたってひどい。異質のごみが混合していることも少なからずあるが、なんといっても、袋に入れたまま排出されているケースのいかに多いことか。袋から出せと明示していないスーパー側の努力の足りなさもさることながら、「ごみ」は「袋に入れて出すもの」という観念が固定されていることの証である。資源ごみ回収の場合には、袋は最終的には邪魔者となる。だから、なるべくならば袋は取り除いたほうがいいのだ。近年、自治体の資源ごみ回収では専用ケースによる回収を行う例が増えているのも、そのあたりとの関連が深いのである。袋に入れたまま排出されたものは、なんらかの形で除去される必要がある。結果的に手間がかかってしまうことになる。スーパーで行っているような拠点回収の場合はなおさらである。 しかし、通常のごみ収集で習慣化されてしまっている袋排出を変えていくのは、意外に困難かもしれない。今後考えていかなければならないことの一つであろう。また、拠点回収スポットを利用する人は、基本的に善意の人だと思っていたのだが、必ずしもそういう人ばかりとは限らないようだ。明らかにごみ箱代わりに使っている人物もいると推測される。スーパーの行為はあくまでも「サービス」である。今後ひどい状態が続くようであれば、せっかくのサービスがなくなるということもありえる。利用者は十分に自覚して欲しいものである。 もう一つは、白色発泡トレイと紙パックの問題。表面に印刷されたトレイは回収の対象にならないということを知っている人は少ない。また、アルミコーティングされた紙パックも回収の対象にならない。が、やはり時々混ざっていることがある。スーパー側の努力も必要であることは確かかもしれない。しかし、多くの人にとってわかりにくい分別であることのほうが大きな問題のように思える。ヨーロッパでは、市民の分別に配慮して規格化がかなり進んでおり、分別がわかりにくいということはないようだ。色付のトレイやアルミコーティングなどは、なんらかの形で規制していけば、よりよい分別につながるはずである。 個人や民間の努力に限界がある、それが廃棄物問題の原点であるということを今一度強く認識してもらいたい。特に為政者に。 2006.4.7 |
ビール瓶 近所のコンビニエンスストアにビール瓶を持って粋換金してもらおうと思ったら、おもむろに店員がびんを持っていずこかへ。何かと思えば、自分のところで扱っているかどうかを確認しにいったのであった。そういえばこの店では、我らが北海道の「サッポロクラッシック」の瓶の引き取りを拒否されたことがあったっけ、などと思いながら、ちょっと暗然とした気持ちになった。 これ以外にも、別のコンビニエンスストアでは、「買い物しない客の瓶の引き取りはしていない」というわけの判らんことを言われたこともあった。あちらがこういう態度に出るということは、おそらく店にとって引き取りは「望ましくないこと」であるということだろう。店側の態度にはむっとするが、その一方で、やはりシステム的に問題があるということも感じた出来事だった。 2006.2.27 |
引越しとごみ 集合住宅での一人暮らしから戸建に移った。引越しの際、思い切っていろいろなものを処分することにした。一応リサイクルショップに数軒連絡を取ってみて、家電などを引き取ってもらえるかどうか確かめてみたが、成果は芳しくない。引き取ってもらえたのはストーブだけで、洗濯機・冷蔵庫・電話・ガステーブル・灯油タンク、その他諸々すべて引き取りを断られた。ストーブは、急な故障による買い替えの可能性があるとのこと。基本的に家電製品は新しくないといけないらしい(大体2.3年程度のようだ)。家電リサイクル法は必要なものとは思うが、いざ自分が排出する状況になると、人間というのは都合のいいもので、高額な負担に気分が暗くなる。冷蔵庫と洗濯機の処分に大体1万円。その他の粗大ごみに関しては、一個当たり650円。なんとなく割安感があるというか。北海道に来てから生活をともにした、包丁・まな板・フライパン・お玉・フライ返しなんかも、未練はあったが捨てた。今回は、人生で最もごみを出した時期になった。 引越し先でも大量のごみが出る。まずはダンボール。運ぶときには必需品だが、運び終われば厄介者である。折りたたんでもかなりのスペースをとるし、旭川では収集が月に一度であるし、広くない我が家には邪魔である。それに、さまざまなものを買い揃えると、とたんに容器包装、特にプラスチックが大量に出る。燃やせないごみとして出すという選択肢もあるが、6月まで待てば資源ごみとして回収されると思うと、今排出するのも忍びない。これは紙製容器包装も同じである。 引越しというものは、確実に大量のごみを出すものだと、あらためて痛感した。 また、引越し先には庭がなく、周囲にも適当な空き地もないので、それまでごみとして排出することのなかった生ごみについても燃やせるごみとして出すより他なくなった。なるべく水分を飛ばして出すようにはしているものの、なんとなく罪悪感めいたものを感じている今日この頃だったりする。他方、引越し先のごみステーションの排出状況(ルールが遵守されているということです)がすばらしく、その点は喜ばしいことである。やはり課題は単身者対策なのだろう。 2005.12.21 |
コンビニエンスストア 最近コンビニエンスストアへ家庭ごみが捨てられることが問題となっている。コンビニエンスストアのみならず、高速道路のパーキングエリアなども同様らしい。部分的にはごみ処理費用の有料化などが関連しているかもしれないが、根本のところは、やはり市民のモラル低下のようである。ごみステーションの排出状況などをみても、モラルのレベルが高いとは決していえない状況である。ひょっとすると、単身世帯の増加とかかわりがあるのかもしれない。 モラルの問題に対しては、即効性のある対策は難しいのが現実であろう。かつてはコミュニティがモラルを維持する機能を果たしていた。「他人の目」が個人の行動をある程度は制約することは可能である。しかし、鉄道やバスなどの床に座る「ジベタリアン」が数年前に話題になったように、他人の目による規制も今後効果が弱くなっていくのかもしれない。そうなると、他者に規律を依存するような消極的なものではなく、個人の内面に規範意識を形成するような形に転換していかなければならないのかもしれない。陳腐な解答ではあるが、環境教育―特に幼少期における―が重要であろう。 実は、これを書こうと思ったきっかけは、昨夜帰宅途中、コンビニエンスストアの駐車スペースにタバコの吸殻が散乱していたのを見たことにある。最近喫煙スペースが減少しており、愛煙家にとっては耐え難い状況となっているようだが、一部のこうした喫煙者のモラルの低さが自分たちの首を締めているという面もある。権利や自由は身勝手とは違う。ルールを守ることから権利や自由は保障されるのだから。 2005.11.7 |
落ち葉の季節 今年も冬が近づいてきました。気温の低下もですけど、やはり木々の葉が紅葉し、ハラハラと落ちるのを見ると、もうすぐ冬だなーと思います。 ただ、落葉はそれなりに厄介なものでもあります。道に落ちればどうしてもただのごみですから。かつては、堆肥作りに欠かすことのできない重要な資源であったと思いますが、現代的な生活においては単なる廃棄物。したがって、それを除去するためには行政の清掃頼みになりがちです(良識ある市民の一部は自主的に清掃しているようですが、それでも最終的な処理は行政頼みであることが多いようです)。 先週あたりから、時間に余裕があるときに限ってではありますが、自宅付近の落葉を集めております。もちろん目的は堆肥作りです。雨が降った影響で、多少嵩が減少していますが、基本的に落葉は非常にかさばります。遊休地の多い旭川では可能ですが、人口密度の高い地域では、なんらかの集約的な施設が必要になってしまうのは致し方ないところでしょうか。 来年の準備とともに、今年できた堆肥は近くの花壇に使わせてもらおうと思っております。 2005.11.2 |
堆肥作り(もどき) 今年も落葉で堆肥めいたものを作成できました!無駄?な土地がある旭川って素敵です。 おそらく当初の体積から10分の1以下(単なる目測にしか過ぎません)と思われます。見たことない人には不思議かもですが、3年やっていると、昆虫や微生物の働きをあらためて知る、ってやつです。中途に、自分の家から出てきた生ごみ(野菜くずとか牛肉の脂身、鮭とばの皮など)も混ぜましたが、ものの見事に消費してくれました。さすがに卵の殻とワインのコルクは丸々残りました。卵の殻は、そのままでも肥料代わりになるのでよしとしよう。多くの人の体験談を見てみると、問題になるのは魚や烏賊といった魚介類のようです。 堆肥らしい、サラサラの黒土のような状態になってくると、真っ先に消えていくのがミミズ、そしてダンゴムシやワラジムシなどの昆虫類もいなくなります。よくわからんけど、このあたりが、完熟か否かのバロメーターなのかもしれない。 今年は一年でほぼサラサラ状態になりました。かといって、肥料としての効果がどうかはわからないところが怪しく、そして悲しいところですけどね・・・本格的にやろうとすれば堆肥は難しすぎます。でも、それほど堅苦しく考えないことが、市民の取り組む堆肥化かな、なんて自己弁護です・・・ハハハ・・・堆肥そのものを作るよりも、堆肥を作る過程の方がもっと楽しいと思う今日この頃。やる気のある人が増えてくれば、家庭の生ごみや、街路樹の落葉なんかは廃棄物ではなくなるんだけどな。 2005.9.9 |
雑草は「ごみ」か? この季節になると、燃えるごみに大量の雑草が捨てられているのがしばしば目につく。特に旭川の人々(北海道の人々といったほうがいいかもしれない)は、自宅の庭で花や野菜を育てる人が多いように思うが、こまめに手入れをすると、どうしても雑草が「ごみ」として出てきてしまうのも、ある意味では致し方ないところだろうか。しかし、どうしても釈然としない。同じことは、庭木を剪定した際に出る選定枝にもいえるし、秋の落葉もしかりである。 東京では、最近庭木の剪定枝や雑草を堆肥化する試みが増えてきているようである。生ごみと違い、一定程度のごみ質を期待することができるためだろうか。細かく砕いて発酵させることによって、土壌改良剤として活用することができるとのことである。これは、土地に余裕のない東京でのことであるが、廃棄物行政についても、埋め立て処分場の問題等あって、いかに最終処分場に搬入されるごみを少なくするかということに腐心している。決してポジティヴな取り組みとはいえないにしても、結果としてごみ減量に成功すれば、それに越したことはない。 一方、道内の廃棄物行政の取り組みは、やはり遅れているといわざるを得ないだろう。それだけではなく、道民・市民の意識も、都市圏に比べたら低いのではないだろうか?大量の雑草が燃えるごみに出されるということは、ある意味でそれを反映してしまっているのかもしれない。東京に比べて、旭川は土地の余裕がある。庭の片隅をちょっと利用するだけで、生ごみや雑草・落葉の堆肥化などは簡単にできるものだ。それも、ほとんど努力らしい努力をしなくても、である。ただ積んでおきさえすればいいのだから。あとは微生物や小動物が片付けてくれるのだから。 一部の心ある人々は、生ごみの堆肥化などの努力をしているようである。旭川市のホームページにもダンボールを使った堆肥化の方法が紹介されている。実際それにしたがって堆肥化をしようとすれば、それ相応の手間を必要とする。しかし、もっと簡単に、ただ植物を積んでおくことだけでも、堆肥化に「似たようなこと」ができるということを知ってほしいものである。 なんでもかんでも、不用なものを「ごみ」としてあつかうのではなく、資源化するという意識は重要である。 それに、資源化を行政にすべて任せてしまうということについて、もっとよく考えなければならないだろう。「近代化」のひとつの側面は、かつては家庭や地域が担っていたことを、行政が行うようになるということといえる。福祉国家というものは、それを象徴的に体現しているものである。しかし、福祉国家の運営にはそれに見合った資源が必要になる。本来自分でできることを行政に押し付けるという行為は、結果として、いろんな形で自身にはね返ってくることが多い。自治は楽なことではない。しかし、自治を失うことは悲惨であるように思う。 2005.6.25 |
生ごみの資源化・小さな個人的取り組み 今年の演習では生ごみのリサイクルについて学生とともに勉強の最中。北海道には、富良野市という生ごみリサイクルの先進自治体があり、また、農業が盛んな土地柄、可能性は高いのかな、などと想像していたのだが、生ごみを資源化するには、他のものとは違ったさまざまなハードルがある。なんといっても、生ごみは腐る、これが最大のネックであり、また、生ごみを資源化するには農業や畜産業との連関が必須である。まだまだお勉強中のみであるので、ここではこの程度にしておこう。 生ごみに対する個人的な取り組みということを思い返してみると、幸い自宅には小さな花壇のようなものがあって、中学生くらいまでは、ごみ袋をあさっては生ごみをせっせと土に埋めていた記憶がある。夏場は生ごみの分解も早く、スイカの皮などは一日もたてばかなり腐食が進んでいた。最近知ったことだが、未処理のまま生ごみを埋めるのはいろいろと問題があるらしく、今にして思うと、植物には過酷な処理方法だった。冬場は土壌の処理能力も著しく落ちるので、近くにあった雑木林まで運んで処理していたが、春になるとそこから捨てたじゃがいもの芽が生えてきたりして面白かった。少し掘り返してみると真っ黒な土になっていて、今思うと良質な堆肥になってたんだろうなーと思う。そういえば、とうもろこしの芯を埋めて置いたら、いつしかそれはシロアリによってボロボロに食い荒らされていた。シロアリのやつらはどこから来たのやら。 北海道に来て7年目、自宅から生ごみを燃えるごみとして出したことは一度もない。あまり自炊らしい自炊をしていないため、ごみになるものが少ないということが大きい。せいぜい野菜くずや貝殻・卵の殻、冬場は鮭の皮(鮭とばの残りですな)程度で、野菜くずなんかは、量が少ないために三角コーナーに入れておくと干からびてしまい、腐る恐れもない。札幌にいた頃は、近くに適当な土地もなかったため、ある程度たまったら、近くの花壇やなんかに移植ごてを使ってせっせと埋めていた。これを見ていた人がいたとしたら、相当怪しいやつに見えたに違いない。 旭川に来てからは、周囲に遊休地がたくさんあって、なおかつ秋口には大量の落ち葉が発生する。一昨年からは、これを利用して堆肥作りを試している。量も少なく、植物系の原料がほとんどのため、農家が使うような本格的な堆肥にはならず、むしろ腐葉土に近いものができる程度だが、それでも何とはなしに充実感があるというか。動物系の原料を使った場合は、注意しないとカラスなどに掘り返されるし、思ったよりも楽ではない。しかし、そういうことにめげることなく、自分でできる小さな実践、がんばってやっていきたい。 たまに中をのぞいてみると、大量の虫(ダンゴムシ、ゾウリムシなんか、アリやシロアリもいた)が巣食っており、今年はミミズもかなりいらっしゃる。ミミズでも、太くてでかいやつは堆肥作りには向かず、イトミミズという、細くて赤い縞のあるやつがいいらしいが、今年はそれも居着いてくれている。意味もなくうれしく感じてしまった。冬になる前に、花壇に鋤きこんでおけば、来年きっと立派な花が咲くだろうなーなどと今から勝手な想像をしている今日この頃。 2005.6.18 |
厚木でのいろいろ 連休に、実家に戻って持ち物を整理してみたが、人間というものは案外いろいろなものをとっておくものだと、あきれ返ってしまった。中学高校の教科書、テストの答案、参考書、ノート。大学時代の講義ノートやプリント類、学習塾の講師時代のテキストやプリントなどなど。小学生時代によく読んでいたポプラ社のアルセーヌ・ルパンシリーズや江戸川乱歩シリーズなんかもあったし、昔好きだった森村誠一・横溝正史を中心に、文庫本は、4〜500冊はあったのだろうか。マンガも随分持ってましたね。 引越し用の段ボールにして20箱くらいあったものを、半分くらいは捨てました。文庫本やマンガなどは、半分は古本屋へ。全部で500冊は下らないと思ったけど、査定は2000円いかなかったですね。ほとんどが「値段がつかない」物として処分されてしまいました。ただ、店のほうで引き取ってくれたので、すっきりとした気分で家に戻れましたが。 厚木では、私が北海道に引っ越す数年前から隔週で資源回収日が設けられていて、雑誌・段ボールなどの古紙類も回収しておりました。地価の高騰にともなう保管スペースなどの問題や人手不足などでバブルの時期に多くの回収業者が廃業したと聞く。また、90年代は古紙をはじめとした資源物の市場価格が軒並み低迷していたため、ちり紙交換の車が住宅を回るということも少なくなっていた。それゆえ、首都圏の自治体では、かなりのところが資源回収日を設定して古紙類なども集めている。最近では中国の経済が好調なため、輸出に回る量が増加して、そのために資源物の価格は上昇傾向にあるとも聞くが。 それまでは、古紙類は基本的に新聞紙、雑誌、広告類、段ボールに限られていたが、厚木市では、紙製容器包装やはがき、封筒や手紙などの雑紙も回収の対象に加えてました。とっておいたものの中には、友人からの書簡や年賀状なんかもあって、それらをまとめたら、新聞屋がくれる袋が一杯になるくらいありました。比較的厚木は廃棄物行政については「先進的」なところがあったけど、こんなところにもそれが現れているように思いました。もっとも、自前の最終処分場を持っていないということが大きく影響しているのでしょうが。最近こうした取り組みを行う自治体も増えているようで、北海道の幌加内町などでは、ミックスペーパーといってカーボン紙や感熱紙なども対象にしているらしい。処理コストや再商品化の可能性など、いろいろなハードルはあるだろうけど、こうした取り組みが増えていくことはいいことですね。 また、厚木の資源回収では、白色発泡トレイとPETボトルも対象になってました。首都圏の自治体は努力してますね。 2005.5.20 |
雪解け 年度末と年度始めは忙しい…と言い訳しておきましょう… 今年は雪解けがやや遅め。雪解けシーズン恒例のゴミ山が出現したのは4月も半ばくらいだったろうか。融けてみれば、やっぱり空き缶やPETボトルはかなりの量、雪に隠れていただけなのね…特に、住居の近くは公園のようになっていて、冬場は雪捨て場のごとくになるため、ゴミの量も半端ではない。先日、たまりかねて、とりあえず缶・びん・PETボトルだけを拾うことにしたが、スーパーの大型のレジ袋があっという間に3つ満杯となったのには、あきれるやら悲しいやら… やっぱり主役は缶コーヒー。その量は他の追随を許さないものがありました。缶コーヒー飲む人ってモラル低いのかなーなんて思ったりしてしまいます。すべての人がそうではないにせよ。あと、缶ビールも少なからぬ量がありました。捨てた人、冬場というのにご苦労なこってすね。 それと、引越しシーズンゆえに段ボールが大量に出されますが、多くは期日が守られていないです。出す方の責任が第一にせよ、やっぱり市の収集方法にも問題がある気がします。 2005.4.26 |
不適正排出(怒!) 公的な仕事でごみに関わることが何度かあったもので、それ以降ごみの出され方にも注目するようになっている。はっきりいって嘆かわしい… 旭川市では、容器包装リサイクル法にしたがって、びん・缶・PETボトル・紙パック・段ボールを資源物として回収している。しかし、これが適切に行われているとは、少なくとも私の通勤路周辺のごみステーションを散見すると、とても言える状態ではない。 特に現在私の住んでいるところは、単身世帯が多いということと転勤族が覆いということが要因と思われるが、特にひどいように感じる。排出方法は自治体によってまちまちであるが、以前住んでいたところの排出方法と同じように出していると思われるものが多数ある。資源物が燃えないごみに出されるなんていうのもあれば、資源回収日にPETボトルが混ぜられていたりなんていうのも日常的である。段ボールに至っては、指定された日に出されているものの方が圧倒的に少ないと思われる。PETボトルも段ボールもかさばるし、早く捨てたいと思う気持ちもわからなくはないし、若干情状酌量の余地がないともいえなくもないが、やっぱりちゃんとルールを守ってほしいものだ。 旭川市の場合、回収システムに問題があるともいえる。びん・缶・紙パックは週一度同じ日に排出すればよいが、段ボールは月に一度の回収、PETボトルは隔週でかつ資源物の回収日とは曜日が異なっている。なぜこのような形になってしまうかというと、どうやら回収する側の事情によるものらしい。つまり、ローテーションの問題である。旭川市では直営による回収と委託による回収が並行して行われているが、その仕組み上の問題があるというのが原因と目される。不適正排出は市民の側の責任が大であるとはいえ、集める側の努力が足りているかといえば、決してそんなことはいえないといわざるを得ない。民間の活力も含めた形で回収システムを構築しなおさない限り、現状の改善を見込むことは難しいだろう。 もうひとつ気になるのが古紙類である。旭川市では、集団資源回収などを利用することを推奨しているが、それでは限られた地域の人々しか利用できないし、やはり単身者にとっては市による回収が使い勝手がよいだろう。新たにコストがかかるというマイナス面も無視できないが、市現物に古紙類を入れることは必要だと思う。さらに古布類も回収すれば、それなりの減量効果を見込める。 市も、本気でごみを減らしたいと考えているならば、いろいろなことを本腰入れて検討をしてもらいたいものである。 2005.3.24 |
粗大ごみのシーズン 引越しの増加とともに、粗大ごみが増えるのは仕方のないことなんだろうか?うまいことリユースする方法はないのだろうか。一部の人たちはフリーマーケットなんかを利用しているが、圧倒的多数はごみとして排出するのだろう。ベッドや本箱、テーブル、椅子なんかが大量に捨てられていくが、捨てる人はそれがどのように処理されているかということには無頓着なんだろう。 首都圏の場合、埋立地の確保がきわめて難しいということもあり、多くの自治体で減量化に努力をしている。粗大ごみについても、使えそうなものは市民に提供するということもしているし、どうにもならないものであっても破砕処理をして、最終処分場にいくごみの量を最小限に抑えている。もちろん、金属は回収し、焼却可能な部分は燃やしている。 しかし、インターネットがこれだけ発達している今日、もう少しやり方を考えれば、粗大ごみの減量って割と簡単にできるんじゃないかと思ってしまうのは素人考えなのだろうか?リサイクルショップが増えてきているものの、それだけではやっぱり限界がある。不用品を取引するなんらかの仕組みづくりを作っていければいいのに、と考えるだけではだめなんでしょうねぇ…誰かやってくれないですかね? 2005.3.23 |
空き缶拾い 昔から道端にごみが落ちているととても気になってしまう性質であったが、それは今も変わらない。巷で空き缶ごみの散乱が問題視されていた70年代生まれだからかとも考えられる。まだまだびんも多かったとはいえ、僕らが生まれた頃はすでにジュースの自動販売機もあちこちにあって、空き缶も散乱していた。竹竿にいとつけて、先に磁石をつけたもので、道端に散乱した缶を拾って歩く「缶釣り爺さん」なる人がテレビに出てくるくらい、空き缶対策は社会問題化していた。その後、缶釣り爺さんはアルミ缶の登場に頭を悩ませていたとか何とかという落ちもついていたな。 小学生の頃から、特に缶拾いはよくやったものだ。前にも書いているとおり、厚木では分別収集が早いうちに導入されていたので、混合ごみはご法度だったわけで、どうせ拾うなら、わかりやすくて量も結構ある缶にしようと、そんなことを考えていた気がする。スーパーでもらうビニール袋を持って、それが一杯になるまで拾う。早いときには家からものの1kmも歩かないうちに袋が一杯になるが、時にはそれが長い道のりになったりもした。我が家は幹線道路の近くで、なおかつ休日は観光道路と化すこともあったのだろう、ごみの散乱は結構ひどく、空き缶もかなり落ちていた。それに、今ではプルタブがSOT(ステイオンタブ)に統一されているけど、昔はリングプル?が一般的だったので、プルタブの散乱もひどかった。高校生の頃に一度、自転車で通っていた通学路の河川に面した道路の空き缶が気になって、休みの日に黒のビニール袋を持って拾いに出かけたことがあったけど、途中で満杯になって拾いきれなかったなんてこともあった。話はそれるけど、今思うと、とにもかくにも、俺もボランティアしてたんだなぁ・・・ 現在でも同じようなことをたまにしてしまう。悪いことではないとはいえ、人にみられるのはやっぱりあまりいい心地ではない。だから、最近は人通りのなくなった真夜中とかにやっているけど、かなり怪しい。現在の通勤路は比較的ごみが少ない?ので、気付いたときに落ちていた缶を家に持ち帰る程度のことが多くなっている。 最近では、夏場に空き缶を拾うことが少なくなった。かつては清涼飲料のアルミ缶やビール缶などが多かったけど。その代わりにPETボトルが増えている。冬になるとPETボトルは減ってスチール缶が増える。それもほとんどはコーヒーだ。道端のごみを観察していると、圧倒的に多いのがタバコの吸殻であるが、コンビニおにぎりやパンの袋も結構ある。それとコーヒー缶はいわばポイ捨てごみの横綱クラスといえる。なんとかならんもんかなー。 しかし、今年に限っては、コーヒー缶が落ちている個数が少ないかな、と感じている。おそらくはジョージアやBOSSがやっているキャンペーンとかかわりがあるのだろう。もし関係があるとしたら、メーカーもそこまで考えていたわけではないだろうけど、こうした方式を大いに活用すべきだよな。 2005.3.11 |
生きびんの思い出 最近はめっきりと生きびんがされわれの生活から消えてしまった。生きびんとは、今日風にいうならばリターナブルびん、つまり洗浄して繰り返し使うことのできるびんのことと考えればよいだろう。 生きびんの代表的なものとしては、ビール瓶や一升瓶がある。しかし、家庭で日常的に飲むのは、缶ビールであり、日本酒でも一升買う人は今日日少ないであろう。実際、生きびんの流通量は年々減少しているという。日常生活からは、生きびんはほとんど淘汰されたといっても過言ではないかもしれない。現在でも、日本には百数十種類の生きびんがあるらしいが、そのほとんどは、焼酎(トライアングルとかワリッカなんか)などの酒類のびんや、飲食店でよく出てくる、コーラやオレンジジュースなどの小瓶なんかで、どちらかといえば、店で出てくるものの方がその数は多いだろう。かつては酢のびんが生きびんだっていわれてたけど、今はどうなんだろう? 私は現在30代半ばの年齢であるが、私が幼少の頃は、生活の中にかなりの生きびんがあった。例えば牛乳。牛乳といえば、現在は紙パックが当たり前であるが、私が小さかった頃はびんが当たり前であった。180ml、一合の量が入るびん、今でも時々見かけるけど、あれが牛乳の容器であった。学校給食でもあれが配られたものだ。しかし、牛乳配達以外では徐々に1リットルの紙パックが当たり前となり、小学校の3年くらいに、給食でもびんが紙パックに置き換わったと記憶している。 しょうゆも生きびんだった。記憶が定かではないが、確か一升瓶のような形状であるが、容量は2リットルだったような・・・青みがかった透明のびんだった。確か店では20円で引き取ってくれた。いつしかこれも、現在のような1リットルのPETボトルに変わってしまった。しょうゆ用のPETボトルは認可が早く1977年にはすでに市場に出回っていたそうである。食用油もかつてはびんだった。茶色いびんで、子供の頃は一升瓶だと思っていたが、今考えてみると、油専用のびんがあったのではないかと思う。これも次第に容器が缶に変わり、そしてプラスチックボトルへと変わっていった。ワインも、国産ワインは一升瓶入りだった。 しかし、なんといっても思い出深いのは、清涼飲料水の生きビンである。女性の身体を模ったといわれるコカコーラの流線型のびんは特に印象深いし、ファンタや三ツ矢サイダー、キリンレモンなんかも、それぞれ独自の生きびんを持っていた。日本ではあまり人気が出なかったペプシコーラも生きびんで流通していた。 子供の頃なによりもうれしかったのは、清涼飲料水の生きびんが、子供にとっては結構いい値段で引き取ってもらえたことである。ビール瓶は今も昔も5円、一升瓶は、時に応じてその価格が変化しているが、これも大体5円というところだったろう(もう少し値段はよかったかもしれない。久しぶりに酒屋に一升瓶を持っていったら3円だったな)。そこいくと、コカコーラやファンタのびんは500mlで10円、1リットルびんになると30円で引き取ってもらえた。そして、こいつらが結構道端に落ちていたり、ごみステーションに捨てられていたりしたものであった。これを店に持っていって、もらった小金で駄菓子を買うなんていう芸当が当時は可能だった。夫と離別した子連れの女性がびん拾いをして食い繋いだなんて暗い話もあったナー。しかし、私が小学生の高学年くらいになると、次第に中途半端な量の500mlのびんが嫌われはじめ、缶ジュースやワンウェイびんに押されていった。はじめは250mlの缶だけだったけど、350mlの缶が出て「爆発的な」売れ方をした。記憶が正しければ、350ml中学3年の頃に発売されているはずである。京都に修学旅行に行ったときに、350mlの缶を初めて目にした東人の私たちはこぞってそれを買った記憶がある。1リットルのびんの方は、ホームサイズといわれ、主に家庭で消費されることを念頭に作られていたため、スクリューキャップになっていてなかなかの便利物であった。しかし、こちらもPETボトルに置き換わっていった。 今でこそびん容器は、環境に優しいということで評価されているが、かつては重いし割れるので、どちらかというと厄介もの扱いされていた節がある。リターナブル容器よりもワンウェイ容器の方が「経済性」がよいという企業戦略の部分も多分にあるものの、消費者の「便利さ」追求が生きびんの淘汰に一役買っているのも事実である。アサヒビールがスタイニーボトル(?だったっけ?)を出してみたものの、今ではその影も形もなく、小瓶のビールはあるにはあるが、一部の高級ビールで使っていて、しかもご丁寧にワンウェイびんであるということをラベルに記してある。国策として取り組むくらいの姿勢がなければ、生きびんの復活はきわめて険しい道のりとなるだろうな。 2005.3.10 |
ごみに関する「原体験」 なんとなく、形式張ったことばかりHPに書き込んでいくのもつまらないように思い、日頃自分が「ごみ」に対して抱いている思いやなんかを書いていったらどんなことになるだろうかと、ふと思いついたので、今日からそれを実行してみようかという思いに至った。 私の生まれ育った神奈川県厚木市は、比較的早い時期から燃えるごみと燃えないごみの分別収集が行われており、私が物心ついた昭和50年代にはすでに導入されていたと思う。習慣というのは恐ろしいもので、厚木のシステムに慣れてしまった私はいまだにプラスチックは「燃えるごみ」という認識が強く、そして、資源ごみの回収でも、「空き缶」と「空き瓶」は別の袋に入れて出さないと落ち着かない。電池も、いつごろからだか忘れたが、市報と一緒に専用の袋がつけられて、それに入れて出すようになっていた。思えば、厚木市のごみ処理システムは、いわゆる「沼津方式」に近いものであったといえる。もちろん、沼津ほどには徹底されていなかったけど。 そのような常識が特別なものであるということを知ったのは、1980年代後半のいわゆる第二次東京ごみ戦争あたりでの、テレビや新聞の報道によってである。多くの大都市では燃えるごみも燃えないごみもまとめて排出しているということを知ったときは、ものすごい驚きであった。その頃は、先進的な取り組みが成功している地域は中小都市であり、大都市圏において分別収集を行うのは不可能というのが定説であったと記憶している。今からみると、名古屋の成功例もあるし、やろうと思えばやれないことはない。定説や常識というのは、案外いい加減なものである。 1999年に、仕事の関係で札幌に住むことになったが、ここでまた私は常識を覆される経験をすることとなった。それも、どちらかというと「うれしい」覆され方であった。札幌市では、容器包装リサイクル法の完全施行に先駆けてプラスチックごみの分別収集をすでに行っており、自前の油化プラントで廃プラスチックを処理しているという。私は喜び勇んで?プラスチックごみをせっせと集めだした。その時に気付かされたのが、日常的に出すごみの大部分はプラスチックごみであるということと、プラスチックごみというものはやたらとかさばるということであった。おそらく、札幌での分別の経験がなければこうしたことに気付くこともなかったであろう。以後、私の札幌生活は、大部分の資源ごみと少量の生ごみと紙ごみが出るに過ぎないという、ごみだけに特化するときわめて環境に優しい??ものとなったのであった。生ごみは、移植ごてを片手に近くの花壇へとせっせと埋めに行っていたので、我が家から出るごみは、コンビニ袋(小)で年に2.3袋の紙ごみだけという優秀さでありました。今もこの状態、ほとんど変化はない。 まだまだたくさん書きたいことがあるけど、今日はこれくらいで。 2005.3.8 |